せっかちな母

 私は76歳になる母親と女2人、築47年になる家で慎ましく暮らしている。9歳の時両親は離婚し、私と1つ上の兄は母がが引き取ることになった。母は私たちを養うために、20代から水商売の道に進んだ。クラブ勤めに始まり、スナックの従業員として働き、のちに小さいけれど自分のお店を持つようになった。コロナの苦しい時期をなんとか乗り越え、後期高齢者になった今もコツコツと営業を続けている。私もたまに飲みに行くが、年齢層は30代から80代と幅広く、演歌と手拍子とおやじギャグが飛び交う癒しのお店である。

そんな母の特徴はというと超せっかちである。

 ある冬の夕方の事だった。晩ご飯の買い出しのため、一緒にショッピングモールに買い物に出かけた。母の後をついてエスカレーターに乗った私は、母の足元を見てギョッとした。右足がおっさんが履くような泥だらけの黒い長靴で、左足が今どきの可愛いレインブーツを履いているではないか⁈
 同じ色とか、似たような形なら履き違えるのもまだ分かるが、まったくの別物である。軍手とラルフローレンの手袋ぐらい畑が違う。平穏な日常に降りかかった珍事を思い出に残そうと、私はすかさず携帯で連写した。一通り携帯に思い出を収めたところで母に「靴だいぶ間違ってるよ」と伝えた。すると母はポッと女学生のように顔を赤らめ、どうして教えてくれなかったのかと私を責めた。そう言われても外はもう暗かったし、人の足元など以外と見ていないものだ。母は恥ずかしいから、ここで新しい靴を購入すると言う。面白いからそのままでいいよと伝えたが、結局靴を購入し、履いていた靴はお持ち帰りしたのであった。
 他にもタクシーを呼んだ時だ。到着まで10分と言われても、電話を切ったと同時に外に出て待ち構える。バスで出かける時は、家を出る前からバス賃をポケットに忍ばせる。この前は私がトイレから出ると、ズボンのボタンを開け目の前で待っていた。用意周到とか準備万端といえば聞こえはいいが、そこまで行くと嫌がらせの領域なので注意した。
 銭湯に行った時もせっかちの本領を発揮する。私が脱衣所のカゴに、替えの下着やら靴下やらを出している間に、母はもう全裸でタオルを持って湯船にスタスタと向かっている。は、早い…瞬時の出来事に、私の時間だけが止まっていたのだろうか?と混乱する。私はこれを母の秘技「4枚脱ぎの術」と名付けている。彼女はズボンとヒートテックとパンツと靴下を同時に脱ぐことが出来るのだ。その間わずか3秒。匠の技に、この時ばかりは母のせっかちを尊敬してしまう。

 かく言う私も、彼女の血を確実に引き継いでいるなと実感する時がある。それはトイレと着替えの速さである。職場で「お手洗いに行ってきます」と周りに伝え、戻ると「掃除中だったの?」とか「誰か入ってたの?」と聞かれる。あまりの早さに、ただ行って戻って来ただけと認識されるようだ。心配しなくてもしっかりと用は済ませている。だいたい世の女性は何故あんなにトイレに時間がかかるのだろう?そっちの方が私は不思議だ。トイレ早済ませ選手権があったらメダルを争えるレベルのスピードだと思う。
 そして職場での着替えも誰よりも早い。1秒でも早く服を着れるよう、頭の中でシミュレーションしながらロッカー内の服の畳み方や、重ねる順番など創意工夫している。その労力を仕事に生かせばいいのに、早着替えに全力を注いでいる。その努力の成果もあり、常に1番早く着替えを終えることが出来ている。「お先に失礼しま~す」とロッカールームを出る。「え!うそでしょ⁈」という、同僚の声を背中で感じながら、どうだ参ったか(なにが?)と優越感に浸るのだ。どこで優越感を感じているんだと我ながら思うが、他人より早いことが他にないので仕方がない。仕事が終わった瞬間から、私の戦いは始まっている。タイムカードに打刻をし、ロッカーに向かって歩きながら上着のボタンをはずす。一緒に歩く同僚に気付かれないよう細心の注意を払い、ズボンのボタンをはずし、ジッパーを半分おろす。早く着替えるための行為のはずなのに、自分が道を踏み外している気がしてふと不安になるわたしであった。

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